最近つくづく思うんだけど、昔の方が便利だったよな、生活全般が…。
昔っていつ頃かというと、だいたい昭和25年から30年頃。近代ってやつが生活にジワジワ浸透し始めた頃かな。個人が自由を手にする代わりに、自己責任が義務づけられる、あの時代ね。自律した個-なんてカッコいいけど、要するに『それは、あんたの責任でしょ!』ってことが当たり前に言えるようになった時代。社会の規範やら道徳やら、やたら重たい鎖から解き放たれた欲望が、近代資本主義ってジャンボ機に乗っかって離陸した時代、かな。
で、何が便利だったかというと、日々の暮らしの小さな“おこない”、つまり、野菜を買う、魚を買う、肉を買う、エトセトラ。『そんなこと、スーパーに行けばいっぺんに解決だよ!』。なんて声も聞こえてくるけど、ところがどっこい-なんだな。セピア色のあの頃は、家から10分も歩けば、八百屋はある、魚屋はある、肉屋はある、雑貨屋や銭湯もある、おまけにパチンコ屋もあったな。まあ、シリコンバレーならぬライフバレーばりの一大産業集積ができてたよ(チョッとオーバーか!)。
で、何が不便かっていうと、スーパーってやつは、経済性やら効率性やら、自分に都合のいい屁理屈だけで、頼まれもしないのに店を出したり、店を畳んだりする。それでどうなるかっていうと、商店街はシャッター通りになるは、お爺ちゃん、お婆ちゃんは、手押し車で“食の砂漠”を延々と歩かされるは。ほんと、罪つくりだよね、(大手資本の)スーパーは。
でもね、生活のあり方を便利や不便っていう功利性だけじゃなくて、もっと違った角度から真剣に考えなくちゃいけないこともあると思うんだ、私は。それは、スーパーと八百屋、魚屋、肉屋の違いは何か、同じことは何かってことなんだけど…。
まず二つは、資本力が違う、オペレーションが違う、ビジネスの仕組みが違う、などなど、いろいろ目につく。じゃあ、同じことは何か。私の意見は、どちらも経営体だし、経営者がいるってことかな。そこでもう一歩踏み込んで、とても大事な違いは何か。それは、八百屋のオヤジ、魚屋の大将、肉屋の旦那は、毎日店先に立ってお客とやり取りするけど、スーバーの中に社長はいない。売り場に立っているのは、労働の対価として賃金を受け取る雇用契約者(断っておきますが、パートさんが仕事に熱心じゃないとか、お客に不誠実だなんてことを言いたいんじゃありません。念のため)。この違いって、結構大きいんじゃないかな。自分のなりわい、あきないに対する真剣さ、お客との接し方、地域に対する貢献、などなど。庶民の“おこない”と商店の“あきない”の相互扶助ってところ、かな。
ところで、近代経済発展の根っこには、分業っていう特効薬があったわけだけど、言い出しっぺはスコットランド生まれの経済学者アダム・スミス。『国富論』のなかで引用されたピン作りの話は有名。1人でピンを作るよりも10人で手分けして作ったほうが生産性は高い-まあ、そんな主旨だけど。もともとは「作業者全員の技能が増大する」、「次の作業に移る時間の節約」、それと「機械の発明」といろいろあったわけ。でも2番目だけがやたらと注目されて、標準化とか専門化とか簡素化とか、実務家に都合のいいように換骨奪胎(かんこつだったい)されてしまったんじゃないかな。
もう一つ、アダム・スミスの本に『感情道徳論』があるけど、こちらでは経済的分業とは違い,規範や権力なんかの社会関係によって役割が決定される-っていう社会的分業の大切さが切々と訴えられている。まさに、八百屋、魚屋、肉屋、小間物屋、銭湯、パチンコ店って社会的分業の極みだと思わない? しかも、この分業がスムーズに回るには、「sympathy」っていう何やら懐かしいものを持ち出してくるんだね、スミスさんは。共感、思いやり、同情。う~ん、やっぱり国富論は感情道徳論から読み返さないと…。今夜も寝不足か!
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